日本1860-1862年万延大判十両PCGS MS61


1853年、黒船に乗ったペリーがアメリカから浦賀に来航し、徳川幕府は横浜、長崎、函館を開港します。
その結果、鎖国体制は崩壊し、金銀比価の違いから海外へ金貨が大量に流出。幕府財政は困窮を極めます。
そこで前代未聞の苦境に立たされた徳川家は最後の威信を賭け、大胆な貨幣改革を断行。『万延大判金』を鋳造するのです。
それまで大判金は恩賞用として造られていましたが、この一枚は初めて25両で通用する金貨として用いられました。
江戸時代の金貨製造を一手に担った後藤家の第十七代・後藤典乗の墨書は桐極印と美しく調和し、最後の大判金にふさわしい風格。
輝きが実に美しく、徳川の権力を誇示しているようです。
大判の鋳造を一手に請け負っていたのは後藤四郎兵衛家ですが、墨書きとは大判に入れられた後藤四郎兵衛家代々のサインです。
後藤四郎兵衛家以外の人間が墨書きをすることは許されず、代々の後藤四郎兵衛家によって全て手書きで入れられました。
彼らの筆跡によって、大判の量目や品位を保証したのです。
墨に膠を混ぜて消えにくいようにはなっていましたが、もし使っているうちに墨書きが消えた場合には、後藤家に持参し手数料を支払って書き直して貰わなければならなかったといいます。
鋳造当時から残っている墨書きを「元書き」、手数料を支払って書き直して貰ったものを「直し書」と言います。
古銭買取市場において特に高い価値が認められるのは「元書き」です。
古銭買取市場における大判の価値を考えるときには、美術品あるいはコレクションとしての希少価値についても考える必要があります。
当然ながら大判は現在では生産されておらず、その数は今後増えることはありません。
また歴史的な観点では、幕末に鎖国から一転し貿易が始まった際、諸外国に比べて日本の金は割安であったため、外国商人はこぞって銀を大判小判に換金しました。
そのため大量の大判小判が海外へ流出し、国内の現存量は大幅に減ってしまいました。
このような歴史的経緯も、大判の希少価値が高い理由となっています。
大きさは80mm x 134mmで重さは112.86gmで、日本貨幣商共同組合の鑑定書付きです。
478万円でお取り寄せができます。

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